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06 — 高原が育てた人々

山あいの町から、
世に出た人々。

平地の少ない高原の集落から、柔道界に名伯楽と呼ばれた師範が生まれ、大正期には国政に挑んだ代議士が 出ました。近年もふるさとへの篤い貢献で名誉町民第1号となった実業家がいます。神々の伝説の陰で、 この土地はたしかに人も育ててきました。

高原に生き、世に出た人々

三者三様の歩み

年表で見る、三人の軌跡。

柔道家・代議士・実業家。生きた時代も分野もまったく異なる三人ですが、並べてみると約150年にわたるこの高原の歩みが浮かび上がります。

1877年

永屋茂、誕生

甲奴郡階見村(現・神石高原町)に生まれる。

1916年

姿節雄、誕生

神石郡神石町古川(現・神石高原町)に生まれる。

1920年

永屋茂、衆議院議員に当選

第14回総選挙に立憲政友会から出馬し、議席を得る。

1934年

姿節雄、中学生にして柔道3段

府中中学校卒業時点で、全国でも数少ない3段位の中学生だったという。

1974年

丹下大、誕生

神石郡三和町(現・神石高原町)に生まれる。

1984年

姿節雄、講道館9段を授与

明治大学での長年の指導実績が評価される。

1999年

姿節雄、逝去

生涯現役を貫いた柔道家としての歩みを終える。

2020年

丹下大、ふるさと納税で多大な寄附

保育所の施設整備や子育て支援事業に貢献。

2021年

丹下大、名誉町民第1号に

神石高原町から初めての名誉町民として顕彰される。

柔道の名伯楽

姿節雄 — 数多の王者を育てた師。

姿節雄

姿節雄(すがた・せつお)

柔道家・講道館九段 / 1916–1999

1916年、神石郡神石町(現・神石高原町)古川に生まれる。1932年に講道館へ入門し、1934年、 府中中学校卒業の時点で全国でも数少ない中学生3段位に列したといいます。明治大学専門部進学後は、 名人・三船久蔵の内弟子となり、約8年にわたり師事しました。

1936年の全日本東西対抗大会に最年少選手として出場したほか、1951年の全日本選手権には35歳で挑戦。 初戦で敗れながらも、生涯現役を貫いたその姿勢は「柔道家としての真骨頂」と評されています。 三船の後任として明治大学の師範に就任してからは、曽根康治・神永昭夫・上村春樹・吉田秀彦・ 小川直也ら、数多くの全日本チャンピオン・世界チャンピオンを輩出。女子柔道部の創設にも尽力しました。 全日本柔道連盟常任理事・顧問なども歴任し、1984年に9段を授与されています。

講道館と段位について: 講道館は、柔道の創始者・嘉納治五郎が1882年に東京で 開いた道場を起源とし、今日も柔道の総本山として段位を認定する権威です。段位は初段から十段まで あり、なかでも9段以上は長年の指導実績と功績を積んだごく少数の柔道家にのみ授与されてきた 最高位の一つ。姿の師である三船久蔵は「柔道の神様」とも称された10段の名手で、体格に頼らず 相手を崩す「空気投げ」などの技で知られた昭和柔道史を代表する人物です。姿はその内弟子として、 約8年にわたり技と精神を間近で学びました。
講道館小史: 講道館は1882年(明治15年)5月、嘉納治五郎が東京・下谷の永昌寺 (12畳ほどの道場)に開いたのが始まりとされます。当初の門下生は富田常次郎ただ一人でしたが、 嘉納は天神真楊流・起倒流など諸流派の柔術を研究・整理し、力任せではなく理にかなった技の体系 として「柔道」を確立していきました。1887年には投の形・固の形などの形を制定して技術の基盤を 固め、1909年には財団法人となり、以後は全国の柔道段位を認定する中心機関としての地位を築いて います。姿が中学生にして3段を得た1934年も、9段を授与された1984年も、こうして整えられていった 講道館の段位制度のもとでの出来事でした。

大正期の代議士

永屋茂 — 山村から国会へ。

永屋茂

永屋茂(ながや・しげる)

弁護士・衆議院議員 / 1877年生まれ

広島県甲奴郡階見村(現在の神石郡神石高原町)に生まれました。広島県師範学校を卒業後、日本大学で 法学を学び、1910年に卒業。上京して弁護士となり、著名な弁護士・花井卓蔵のもとで補助を務めた 経歴を持ちます。

1920年の第14回衆議院議員総選挙に立憲政友会から出馬し、当選を果たしました。弁護士・弁理士としての 活動と並行して、日本人造絹糸株式会社の監査役も務めています。山あいの村に生まれた青年が、 法律を武器に東京へ、そして国政へと歩みを進めた一例です。

立憲政友会と「郡」の選挙区について: 立憲政友会は1900年、伊藤博文を初代 総裁として結成された政党で、大正期には憲政会(のち民政党)と並ぶ二大政党の一角を占めました。 地方の道路・鉄道整備など公共事業を重視する「積極政策」を掲げ、地方の名望家層から支持を 集めたとされます。また1919年の衆議院議員選挙法改正により、それまでの府県単位の大選挙区制から、 郡や市を単位とする小選挙区制へと移行しており、永屋が当選した1920年の第14回総選挙は、 この新しい選挙区割りのもとで初めて行われた総選挙でした。弁護士として名を上げた花井卓蔵は、 刑事弁護の分野で数々の著名事件を手がけたことで知られる、明治・大正を代表する法曹の一人です。
大正デモクラシーという時代: 永屋が代議士となった1920年前後は、「大正デモクラシー」 と呼ばれる風潮のなか、政党政治が力を強めていった時期にあたります。1918年には、藩閥や華族に よらない初の本格的な政党内閣として、立憲政友会総裁・原敬が首相に就任し「平民宰相」と呼ばれ ました。1925年には納税額による制限を撤廃した普通選挙法が成立し、満25歳以上の男性すべてに 選挙権が与えられています。永屋が山村から国政へ歩みを進めた時代は、こうして政党政治が拡大し、 地方の名望家層が中央政界へ進出しやすくなっていった時代とも重なります。

名誉町民第1号

丹下大 — ふるさとへの恩返し。

丹下大

丹下大(たんげ・まさる)

実業家・株式会社SHIFT代表取締役社長 / 1974年生まれ

昭和49年(1974年)9月22日、神石郡三和町の生まれ。株式会社SHIFTの代表取締役社長を務め、 平成29年(2017年)4月から2年間、神石高原町の経済大使を歴任しました。

令和2年(2020年)12月、ふるさと納税を通じて保育所の施設整備や子育て支援事業に多大な寄附を 行い、地域発展と公共福祉の増進に貢献。この功績により、令和3年(2021年)7月21日、 神石高原町名誉町民第1号として顕彰されました。町にはこの1名が、現在も名誉町民として 推戴されています。

ふるさと納税の仕組み: ふるさと納税は、応援したい自治体を自分の意思で選んで 寄附できる制度で、進学や就職で都市部に人口が集中し、出身地の自治体が税収を失っていく問題への 対応として生まれました。寄附をすると、自己負担額の2,000円を除いた全額が所得税・住民税から 控除される仕組みになっており、給与所得者などは「ワンストップ特例制度」を利用すれば確定申告も 不要です。多くの自治体では寄附金の使いみちを納税者自身が選べるようになっており、保育・ 子育て支援や教育、インフラ整備など、地域の実情に応じた事業に充てられています。丹下による 寄附も、この制度を通じて神石高原町の保育所整備や子育て支援事業に活かされました。

人を育てた高原

小さな山あいの町が、なぜ人を送り出してきたのか。

三者三様の歩みの背景には、この土地そのものの成り立ちがあります。

神石高原町は、2004年(平成16年)11月、油木町・神石町・豊松村・三和町の4つの町村が合併して 誕生しました。標高400〜700メートルほどの高原地形に集落が点在し、平地に乏しいこの土地では、 古くから農業や酪農、林業が人々の暮らしを支えてきました。町の公式サイトでも触れられている とおり、中山間地域のなかでもとりわけ人口減少が著しい地域とされ、少子高齢化は今も町政の 大きな課題であり続けています。

そうした厳しい条件の土地だからこそ、進学や仕事を機に町を離れ、柔道・法曹・政治・芸能・ スポーツなど、さまざまな舞台で名を残した人々がいます。姿節雄や永屋茂が生きた時代、山村を出て 東京へ向かうことは、決して平坦な道のりではなかったはずです。丹下大のように、いったん町を 離れてなお、事業で得た力をふるさとへ還元しようとする人物が現れたことも、この土地と人との 結びつきの深さを物語っているのかもしれません。

ほかにも

高原にゆかりのある人々。

各分野の人物名鑑に、神石高原町出身として記録されている方々です。生年順にご紹介します。

森田福市(1890年生)

政治家

中林佳子(1945年生)

政治家

福本ヒデ(1971年生)

俳優

下原理(1977年生)

騎手

飯盛裕美子(1989年生)

麻雀選手

掲載について: 本ページの「ほかにも」の項目は、人物名鑑サイトに神石高原町出身として 記載されている情報を要約したものです。存命の方も含まれるため、詳しい経歴やご活躍の最新情報は、 各分野の公式な情報源をご確認ください。
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