神石高原町の史跡・伝承
洞窟に祀られた神
中国自然歩道の途中にある鍾乳洞で、入口は高さ約10m、幅約7mという大きな開口部を持ち、 洞内の総延長はおよそ300mにおよぶといわれます。この洞窟には仏教の守護神・毘沙門天が 祀られており、洞窟そのものが信仰の対象となってきました。石灰岩地帯特有の自然の造形と 信仰が結びついた、神石高原町らしい聖地の一つです。奥は照明もなく道幅も狭まるため、 今日では気軽に立ち入れる場所ではありませんが、入口の祠には今も花や供物が絶えません。
出雲から来た名犬
平安時代、約1,200年前のこととして坂瀬川地方に伝わる物語です。村を苦しめる大悪狸を退治するため、 出雲の国から「権の守」という賢く強い犬を借り受けたところ、見事に悪狸を退治し、村に平和を 取り戻したと伝わります。その功績をたたえ、権の守の墓がこの地に建てられました。よそから 来た賢い犬が村を脅かす化け物を打ち倒すという筋立ては、日本各地に伝わる犬の英雄譚と 共通する構造を持っており、後述のとおり比較して読むこともできます。
1600年前の王の墓
4世紀後半、およそ1,600年前に大きな勢力を誇った王の墓と伝わる前方後円墳です。全長は 77〜78mとされ、前期古墳としては備後地方最大、広島県内でも屈指の規模を誇ります。 1989年からの広島大学考古学研究室による発掘調査では、竪穴式石室や勾玉(まがたま)などが 確認され、2009年には広島県史跡に指定されました。この土地に、大和王権とも結びつくほどの 有力な勢力がすでに存在していたことを物語る遺跡です。
龍の彫刻が残る社
創建は奈良時代の天平年間(729〜749年)にさかのぼるといい、1,200年以上の歴史を持つとされる 古社です。現在の本殿は1727年の建立で、安土桃山時代の様式を思わせる見事な龍の彫刻が 随所に施されています。同様の彫刻は随神門にも見られ、本殿・随神門はともに神石高原町の 指定文化財となっています。水にまつわる神とされる龍神の意匠は、高原の暮らしにとって 水がいかに大切であったかを静かに物語っています。
鍾乳洞に祀られた仏教の守護神、よそから来た犬が化け物を退治する英雄譚、大和王権とも結びつく 古代の首長墓、そして水神を彫り込んだ江戸期の社殿――一見ばらばらに見えるこの四つの物語を 並べてみると、神石高原町という土地に幾重にも積み重なってきた信仰と権力の層が見えてきます。 古墳時代の政治的な力、奈良時代以来の神仏への祈り、中世から近世にかけて語り継がれた 動物英雄譚、そして江戸期の職人が残した美術――それぞれ時代も性格も異なる営みが、同じ 高原の土地の上に重なり合っているのです。
まだまだある、高原の物語
洞窟や古墳、名犬の墓、水神を彫り込んだ社――ここまで紹介した四つの物語のほかにも、 神石高原町にはまだまだ多くの史跡や言い伝えが残されています。杜に守られた古社、 何百年も花を咲かせ続ける椿の古木、先史時代の暮らしの跡、そして名もなき人々の労苦を 刻んだ石碑。ここでは、そうした物語の一部をご紹介します。
三和地域に鎮座する神社で、三間社という形式の社殿としては広島県内でも最大級の 規模を誇るといわれます。境内には樹齢300年にもおよぶという杉やツガの巨木が 立ち並び、深い杜が古社にふさわしい厳かな空気をつくり出しています。
時安地区の教西寺境内に立つ、樹齢およそ700年と伝わる椿の古木です。幹の周囲は 2.27m、樹高は8mに達し、毎年3月から4月にかけて花を咲かせます。伝承では 開山にゆかりのある僧が植えたとされ、1981年に広島県の天然記念物に指定されました。
石灰岩地帯特有の洞窟遺跡で、上下二つの洞穴から縄文土器や繊維土器が発見されています。 毘沙門自然洞窟と同じ石灰岩地形の中にありながら、こちらは信仰の場としてではなく、 人々の暮らしの跡として先史時代の記憶を今に伝えています。
昭和初期、天川と皆井谷を結ぶ険しい山道を切り拓いた七年がかりの道路工事を記念して 刻まれた石碑で、文字の大きさは実に16mにおよぶといいます。名も残らぬ多くの 人々の労苦によって、高原の暮らしを支える道が拓かれてきたことを物語る記念碑です。
洞窟に祀られる、その神の正体
毘沙門天は、もとはインド由来の武神ヴァイシュラヴァナが仏教に取り入れられた尊格で、仏法を守る 「四天王」の一柱・多聞天としての性格と、福徳をもたらす「七福神」の一柱としての性格を あわせ持つ、日本の信仰の中でも特に多面的な神です。
仏法僧を守護する四天王の一人として、北方を守る役割を担う。武将の信仰を集め、 戦国武将・上杉謙信が「毘」の旗印を掲げたことでも知られる、武運の神。
江戸期以降に広まった民間信仰では、財宝・福徳をもたらす七福神の一柱として親しまれ、 鞍馬山の毘沙門天など、山中や洞窟に祀られる例も各地に見られる。
毘沙門自然洞窟のように、山中の自然の洞穴に毘沙門天が祀られる形は、修験道や山岳信仰の影響を 受けた、日本各地に見られる祀り方の一つです。石灰岩地帯特有の鍾乳洞という、日常とは異なる 異界的な空間そのものが、こうした霊威ある神を迎え入れるにふさわしい場所として選ばれてきたと 考えられます。
前方後円墳が語る古代
古墳時代(3世紀中頃〜6世紀頃)は、日本列島各地の有力な首長たちが前方後円墳という共通の 墓制を採用することで、大和(現在の奈良県)を中心とする政治的なまとまり――大和王権――との 結びつきを示した時代とされています。前方後円墳の規模や副葬品は、被葬者がその地域で どれほどの力を持ち、大和王権とどのような関係にあったかを推し量る手がかりとなります。
全長77〜78mの前方後円墳。備後地方では最大級とされる。
竪穴式石室や勾玉などが確認され、当時の埋葬のようすが明らかになる。
備後地方随一の規模を誇る前期古墳として、正式に史跡として保護されることに。
備考。 辰ノ口古墳は、備後地方(広島県東部)が古代吉備地方と出雲地方の あいだに位置する要衝であったことともあわせて語られることがあります。この地に大規模な 前方後円墳が築かれた背景には、大和王権にとってこの土地を押さえておく戦略的な意味が あったのではないかとする見方もあります。
犬の英雄譚を読み解く
犬の塚碑に伝わる物語は、日本各地に分布する「犬が化け物を退治する」型の伝説の一つとして 読むこともできます。たとえば信州(長野県)や遠江(静岡県)には、旅の僧が耳にした化け物の 正体を見破り、「悉平太郎(しっぺいたろう)」あるいは「早太郎」という犬が退治するという よく似た構造の伝説が伝わっています。神石高原の「権の守」の物語も、村を脅かす脅威を、 よそから来た賢く強い犬の力によって退治するという型を共有しており、中世から近世にかけて 各地で語り継がれた犬の英雄譚の系譜に連なるものと考えることができます。
もちろん、両者の間に直接の伝承経路があったと確かめられているわけではありません。それでも、 離れた土地に似た構造の物語が残っていること自体が、人と犬との深い結びつきが各地で それぞれに物語化されてきたことを示していると言えるでしょう。
高原を治めた、江戸の政庁
関ヶ原の戦いの後、現在の三和地域一帯は福島氏・水野氏など複数の大名家の支配を経て、 最終的には奥平松平家を藩主とする中津藩(なかつはん)の飛び地となりました。現在の 神石高原町役場の敷地には、その統治の拠点であった代官所が置かれていたと伝わります。
地元の有力者であった村田氏が代官に登用され、自らの屋敷を代官所として提供したと 伝えられており、当時の建物の配置を描いた絵図も今に伝わっています。役場の敷地内には、 その由緒を記す石碑が今も静かに立っています。
備考。 中津藩は現在の大分県中津市を本拠とする藩で、遠く離れた 備後の山間部に飛び地を持っていたことは、近世の藩制度が必ずしも地理的なまとまりだけで 構成されていたわけではなかったことを示す一例といえます。
文学に刻まれた、被爆の記憶
作家・井伏鱒二(いぶせますじ、1898〜1993年)の小説『黒い雨』は、広島への原子爆弾 投下とその後の日々を描いた作品として知られ、映画化・ドラマ化もされた戦後文学を 代表する一作です。この物語は、井伏が実際に親交のあった旧三和町小畠出身の人物との 交流から生まれたと伝わります。
その人物が営んでいた渓流沿いの宿に滞在した井伏は、その姪にあたる女性が原爆によって 被爆した体験を聞き、その記録や地域の人々の証言をもとに執筆を進めたといわれます。 作品は1965年に別の題で連載を開始し、同年のうちに『黒い雨』と改題、1966年に 完結しました。
現在、ゆかりの旧宅にほど近いつつじが丘公園には、作品中の一節を刻んだ文学碑が 建てられています。戦争の悲惨さと平和の尊さを静かに語りかけるこの碑は、神石高原町が 単なる伝説の里であるだけでなく、近代日本の記憶とも深く結びついた土地であることを 伝えています。
指定文化財に見る、高原の歩み
神石高原町には、国・県・町のいずれかの指定を受けた文化財も数多く残されています。 それぞれの指定は、その文化財が公的にも価値を認められた証であり、これまで紹介してきた 物語を、より確かな歴史の文脈の中に位置づける手がかりとなります。
指定を受けているかどうかにかかわらず、これらの文化財の多くは、地域の人々自身の手に よって長く守り、伝えられてきたものです。制度としての「指定」は後からついてきたに すぎず、本当の価値は、何世代にもわたって受け継がれてきたその営みの中にこそあると 言えるでしょう。
歌に残された清水
「歌の清水・御堂」と呼ばれる場所には、平安時代末期の歌人・西行法師が訪れたという言い伝えが残ります。 ここで詠んだとされるのが、次の一首です。
西行(1118〜1190年)は、俗名を佐藤義清といい、もとは鳥羽院に仕えた北面の武士でしたが、 23歳の頃に出家し、生涯にわたって諸国を旅しながら歌を詠み続けた歌人・僧侶です。 「願わくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月のころ」の歌でも知られ、『新古今和歌集』 には最多となる94首が入集するなど、中世を代表する歌人の一人とされています。陸奥から 四国まで広く旅をしたと伝わることから、西行が実際に訪れたという言い伝えは全国各地に 残っており、神石高原の「歌の清水」もそうした伝承地の一つです。
手にむすぶ岩間の清水底澄みて歌の清水に伝わる西行法師の和歌
行きかふ人のかげも涼しき
清水に手を差し入れれば底まで澄み渡り、行き交う人の姿さえも涼しげに映る――高原を旅する人の目に、 清らかな水がどれほど印象深く映ったかが伝わってくる歌です。神々の伝説だけでなく、こうした旅人の まなざしもまた、この土地の記憶の一部です。
西行ゆかりの「歌の清水」のほかにも、三和地域には「長生きの水」と呼ばれる湧水が伝わって います。名前の由来を裏づける記録は定かではありませんが、清らかな水にまつわる言い伝えが 一つの場所にとどまらず、高原のあちこちに点在していること自体が、この土地の人々が水を どれほど大切にしてきたかを物語っています。
おわりに
星が降った山、亀の形をした石、帝釈天の名を負う峡谷、荒神を鎮める神楽、そして洞窟や古墳、名犬の墓。 神石高原町を巡るこれらの物語に共通しているのは、人々が自然の中にある何か――山、石、水、洞窟――に 神や聖なるものの気配を感じ取り、それを語り、祀り、舞にして今日まで伝えてきたという営みそのものです。
本サイトで紹介した伝承の多くは、行政資料や地誌、口碑をもとに後世にまとめられたものであり、 同時代の一次史料によって裏づけられているとは限りません。それでも、これらの物語がこれほど丁寧に 語り継がれてきたこと自体が、この高原に生きた人々の信仰の厚みを何よりも雄弁に物語っています。
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